目標設定を課す必要性

人間論

私が勤めている会社では何故か毎年の目標設定シートの記入と提出が課されている。しかも上長とかと「あーでもないこーでもない」と話して内容を結局変える必要まである。こういうやり方は疑問なので、目標設定とは本来何なのか、私なりの考えを述べてみたいと思う。

自主的にしてこそのもの

これは最初に、大前提として言及しておかないといけないくらい重要性が高い話。

目標とは他人に設定させられるものではなく自分の意志で決める事。他人から言われたからやっているだけの事を努力とは言わない。やっている事は形としては同じでも自分自身の意志があるか無いかで受け取り方が全く変わる。

形にばかり捉われる人はこれがまるで分かっていないから話が通じない。

一歩間違えれば洗脳

目的意識の重要性は言うまでもない。ただやってるだけでは本質的なところが結局身に付かない。

だからといって本人の意志を汲み取らずに目標を一方的に定めてしまうのはどうかと思う。勿論、会社経営的にこれは達成して欲しい、というような数値基準はある。それを達成できない、できる見込みも無いとなればリストラ対象にされる理由になってしまうので、そういう数値を目標とすることは自分を守ることでもある。数字が嘘でなければ。

そういう数字を目標として課すのは理由が明確なのでまだ理解できるのだが、それ以外はどうだろうか?「こういうのは〇時間以内にできるようになりたい」というのはやっているうちに考えるようになるかもしれないが、入社1年目で先の事をまだまだ自分で予想できないとなると、そういう目標が自分ではなかなか出て来ないだろう。

「例えばこういう感じでどう?」みたいに提案は必要だろう。だがそれも程度の問題。あくまで本人の意志の上での目標でないとどれだけそれっぽい目標も、ただ美辞麗句を並べただけ。

なので目標をいくつ設定するかまでは課さなくてもいい気がする。

目標は手段か目的か

手段と目的の逆転というのは気を抜くと一瞬で起きてしまう。あくまでも、目的があって手段がある。

目標を設定する時は、その為に何をするか、がセット。が、ここで注意する事は、その目標(特に数値)は何のためのものなのか。あくまでも目的があって手段があるが、手段と目的の間に目標があるような状態で、結構曖昧なものに感じる。

例えば、「月の売上〇〇円」という目標を達成するために「〇〇をする」という手段があるが、「目標を達成できないと〇〇なのでそれを防ぐ」という目的が根底にある、といった感じ。

なので目標設定をするにしても手段を講じるにしても、やはり目的意識が重要。目標を設定して満足しているようでは、手段が目的になってしまうのと結局同じレベル。目的と手段を考えることができる、という点で考えれば、目標を設定することはどちらかというと手段。

課す必要はあるのか

目標を設定することは必要且つ有効ではあるが、それを課すというのは正直疑問。こういう感じで目標設定しておくといい、みたいに推奨するくらいはあっていいと思うが、無理に設定させてしまうと目標設定したことで満足させてしまったり、洗脳の入り口になってしまったりする。それでは本来の意味が無い。

誰がどんな目標を設定していてそのために何をしようとしているか、何をしたかを共有する仕組みくらいはあっていいだろう。参考にできる。全員が全員最初から意識を高く持てているわけではないし、そういう人にとって刺激を受けるきっかけになる。

目標設定は自然としている、くらいがちょうどいい気がする。

意識高い系ではいけない

ここまでの話は「意識高い系」と呼ばれるような人に対する苦言のようだと、自分で文章を書いていても感じた。本当に意識が高い人は自然と、目的意識を持って目標を定め手段を考えて実行する、という順番の思考と行動をするのだが、意識高い系は何故か形として目に見える部分をなぞるように受け売りしたがる。しかも、それがまるで自分の意志や意見であるかのように。本当に自分の意志と意見があるなら具体的な目的意識を聞かれて即答できるが、上辺だけ真似している偽物はそこで詰まってしまう。

後者になるようでは偽物の目標設定なんてしても時間の無駄。そうならないきっかけにもできないようなら他の道を探した方がいい。そう考えると目標設定を課す意味は一応あるのだろうが、少数の例外のために許容できる犠牲なのか、というまた別の疑問がある。

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