今の仕事を辞めて次は何をするかを考えるうちに、仕事に対する愛というのは案外バカにできないのではないかと思えてきた。仕事は責任が伴うので心から楽しむことはできないが、苦痛や負担よりも愛情が上回る仕事なら前向きに続けられるのではないだろうか?表現の仕方がどうしても胡散臭くなるところがあるし、私自身考えがまとまらないままこの記事を書き始めている。書きながら考えを整理してみたい。
心からは楽しめない
仕事には責任が伴う。遊び心を持ったところで結局仕事であって、本当の遊びではどうしてもなくなる。それはどうしようもない。
だからといって心に完全に蓋をするというのは、さすがに風情が無さ過ぎてつまらない。自分に対しても相手に対しても、人を大事にしていると言えるだろうか?本当の前向きさはそこから生まれるのか?働いているというより、働かされているだけではないのか?組織に飼われているゾンビみたいになっていいのか?最近そんな事をよく考えるようになった。
心からは楽しめないとはいっても、価値観と能力と需要が重なる所で勝負してこそ仕事に打ち込めるのではないだろうか?3つとも大事だが、強いて言えば需要は正義。バランスが重要。
「やりたい事」と「できる事」
やりたい事とできる事は必ずしも一致しない。やりたい事の方が愛情を注げるはずだが、仕事として「できる」と言えるレベルかは別の話。できる事でも、需要が無ければまともな対価は得られない。
やりたい、というのは大事だが、できる、求められている、というのはもっと優先されるもの。精神的、身体的にどうしても無理でもないならそういう優先順位付けをしていい。
私自身、最初に入った会社はIT企業なのだが、私には適正ゼロだった。私よりできない人なんているのかというくらい、本当に何もできなかった。何となくの興味で入った業界の仕事があまりにもできなさ過ぎて、やりたくない事でしかなくなった。やりたくない+できない、という最悪の状態だった。
一方今いる会社では(その前にまた別の会社にいたが)、1社目の時よりかはできるのは間違いない。比較対象に負ける方が逆に困難だが。ならいいかといったら、そうとは限らない。私は2月辺りから、主にブラック客のブラック要求が原因で体調が良くない日が多い。その客を切り捨てたくてもそんな権限なんて下っ端の私には無い。それが余計ストレスに感じる。能力的にはできても心身をやられるような事を、「できる」と言っていいのか?
「好き」が一番強くあって欲しい
夢みたいな綺麗事を言うようだが、結局これが理想ではあるのではないだろうか?休職や離職を経験しながらも結局仕事をしているうちに仕事はなんだかんだでどうせやる事だと思うようになったからなのか、私はそんな考え方をするようになった。
人間に感情がある以上、自分の意思で好きでやってる分野なら改善や解決のための努力が、嫌いな分野よりも負担に感じにくいはずだ。心身共に負担が大きい事について調べるよりも趣味に関する事を調べる方がずっと楽ではないだろうか?
仕事はどうしても責任が伴うので、やりたくなくてもやらなければいけない時というものがある。仕事は相手があって成り立つ。やりたくないといってもその根底にあるのが好きな事なら、交換条件としてまだ納得しやすいはずだ。それを感じられるのが、愛情の現れの1つではないだろうか?
心と体が一線を越えてしまう前に今の仕事を辞めた後に何をして生きるか、方向性のヒントは得られたので、この記事を書いている時の会社での仕事の苦しみは、必ずしも無駄ではないのかもしれない。かと言って正当化する気は毛頭ないが。
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