依存自体はしてもいい

「依存」と聞くと、アルコール、ニコチン、インターネット、ギャンブルなどの悪いハマり方がイメージされるかもしれないが、依存とは知らず知らずのうちに何かしらしているものだと思っている。

依存の因果関係

まずこれに触れたい。

依存するから上手くいかないのではなく、上手くいかないから依存する。自分の過去を振り返っても、依存に陥った人の話を聞いても、因果関係はこうなっている。この原因と結果を逆転させている人は、依存を自覚していないのではないかと思う。それはそれで羨ましいとも思う理由は後述。

趣味と依存は違うのか

趣味は依存の一種だと思っている。なので趣味と依存の境界線は定義できない。もっと言えば、趣味があること自体が何かに依存している状態の現れ。

趣味をやっている時というのはどんな時か。恐らく、気分を良い方向に持って行きたい時。それは気分が悪い時、良いとは感じられない時、様々あると思う。

依存を、やらないと落ち着かない、ついやりたくなる、そういう状態だと定義するなら、良いパターンと悪いパターンに分けて捉えることができる。

良い依存

仕事や勉強に集中するためのスイッチ、と言ってみればいいだろうか。

例えばコーヒーを一杯飲んでから仕事に取り掛かる人にとって、コーヒーを飲まずに仕事を始めるのは感覚がいつもと違い、それが気になってしまうだろう。それを防げるなら、ある種の予備動作として無理に削らない方が良い。いわゆるルーティーン。

勉強で言えば、得意科目から始めて気分を乗せるのもこれだろう。集中が下がってきたと感じたら他の科目に切り替え、勉強の気分転換を勉強でするようになったら、自然と成績が上がるはずだ。

(これは私の受験学年を振り返って、なぜこの発想が無かったんだあのクソガキ、と今になって強く思う事。)

遊んでもいいから、遊んだ分の勉強をする、という考え方でも良い。この曲を聞くと気が乗る、このゲームをサクッと数分遊ぶと気分転換できて切り替えられる、というのも良い。

悪い依存

言わずもがな、優先順位を逆転させてしまうくらいのめり込み過ぎた状態。

分かりやすい所で言えば上記の通りアルコール、ニコチン、インターネット、ギャンブルなど。行動そのものというより、趣味のつもりが度が過ぎてしまうことが問題。本当にやる事の前、別の事に気を取られ過ぎてしまう。手段と目的の逆転でもある。

仕事、勉強、人間関係、といった所で上手く行かず、気を他の何かで紛らわせたい、嫌な事を忘れたい、そういう時に誘惑がより魅力的に見えてしまう。歯止めのかけ方が分からない、または考えていない状態で触れてしまった結果が悪い依存だ。

優先順位が逆転してやる事をやらないのでは、結局何の問題解決にも繋がらない。問題を先送りにしている。その状態に無い人からすれば、そんな事してないでやれ、そんなだから解決しない、といったように見えるだろう。本当の原因はもっと手前の段階にあるが、手前の段階で躓いていない人は恐らく、躓いていないが故にそこで躓くことが分からない。残酷だが本当に高い才能とは最初から何かしら違いを見せつける。

どちらとも言い難い依存

難関校に合格するための猛勉強、スポーツでプロになるための猛練習、このような努力自体を悪く言う人など、人の不幸を願う人間の形をした悪意の塊でもなければいない。仕事でもそうだ。だが、そのための時間が増える分、犠牲になってしまう物も出てしまう。個人の感情的でコントロールが効く程度ならまだしも、人間関係に繋がる問題を指摘されるも言われることに納得ができず、勉強や練習をすることで忘れようとしたり言われない時間を確保したりする、みたいな事は考え物。努力姿勢自体は素晴らしいものだが、それを盾に問題を先送りにすると、将来的に困ってしまう。

こういう場合、周りの人の言い方が何より重要だと思う。最低限且つ最優先に言う事は、何をどうして欲しいか。次に、何がどう問題なのか。言う側の感情は、実際には難しいとかもしれないが、聞かれたら個人的にどう思うかを話す程度で充分で、相手自体を悪く言ったりその事で粘着したりする幼稚なやり方では、本当に伝えないといけないことの印象が薄くなってしまう。

付き合い方を知る

良い依存と悪い依存の違いは付き合い方。付き合っているか、付き合わされているか。酒は飲んでも飲まれるな、と同じ発想。

依存している物がやる気スイッチとして機能するならそれはそれでありと思う。やる気スイッチをオンにできる条件が分かっているなら使わないのは損。人や物に頼らず気持ちだけ、では限界がある。やる気スイッチを使えなくても一時的には凌げるように体を慣らすことができれば、依存からの脱却の負担が軽くなるだろう。

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